南国でのスケートはマインドセットを保つのが難しいーーマレーシア冬季オリピアン・ジュリアン・イーさんに聞く
今回は、マレーシアで初の冬季オリンピック男子フィギュアスケーターとして活躍した、ジュリアン・イー(ジュリアン・ジー)さんにインタビューしました。マレーシアでスケートをはじめ国際大会に出るようになり、ついにオリンピックに出場。現在はカナダで活動を続けます。常夏のマレーシアで演技を続けるのは並大抵の努力ではなかったと語ります。(聞き手・野本響子=マレーシアマガジン)
ーーまず子供の頃の話をお願いします。お母さんとお兄さんの影響で、サンウェイ・ピラミッドのスケートリンクで2歳の頃からスケートを開始したと聞いています。
当時は子供だったから、友達と遊び感覚でやってましたね。実際楽しかったです。マレーシアには、ここサンウェイとマインズ・ショッピングモール、2つしかリンクがなかった。マインズの方は、その後閉鎖されてしまい、しばらくは1つだけという状況でした。
ーーいつ頃から、選手になることを意識し始めましたか。
5歳の時に、最初のコンペティションに出ました。新しいことを習ったり、準備したり、そういうプロセス自体を楽しんでましたね。当時もうマレーシアでも国際大会が行われていて、タイやシンガポール、香港、中国からの選手が来ていました。違う国の友達ができたりして楽しかった。スケートをやっている人はみんな知ってました。遊びみたいな感じでしたね。
ーー練習は辛かった?
6歳くらいからたくさん練習するようになりました。ご存知の通り、練習は同じことを何度も繰り返さなくてはならないし、退屈なプロセスもありますよね。でも後になると、結果として出て来ますから。
ーー当時のフィギュアスケートのヒーローは誰でしたか?
小さい頃から、オンラインでいろんなスケーターたちを見ていました。昔のスケートの伝説の人とかね。ポール・ワイリー、カート・ブラウニング、(30。48)高橋大輔選手も見ていましたよ。みんな違うスタイルを持っているよね。彼らみたいに、もちろん自分のスタイルも持ちたいと願っていました。
今は特にヒーローはいないけど、すべてのスケーターの違うスタイルを見習っています。誰を見ていても、見習うべきところがあると思いますね。
ーー小学校は普通の学校でしたか?
もともと、公立の中華学校にいました。宿題も多く、勉強との両立は大変でした。いろんなことを犠牲にしないといけないし、まだどうやってバランスを取ればいいのか、よくわからなかった。僕のようにスケートをやっている子は当時学校にはいなかった。けれど、友達が勉強などでは助けてくれました。
その後中学校でインターナショナル・スクール(Sri KL)に移ったのですが、このあたりから、練習との両立がうまくできるようになった。学校も友人も非常に理解があり、競技会と試験が重なると、特別に試験を延ばしてくれたりしました。学校がオープンマインドで、ラッキーでした。
ーー最初から周りに理解はあった?
いえ。最初は理解する人が少なかったです。最近では随分良くなって来ました。スケートがスポーツだということも理解してもらっています。
ーーマレーシアでスケートをやる上で一番大変なことはなんでしょうか?
強いマインドセットを持ち続けることです。まず、マレーシアを始めとする東南アジアでは、施設が十分ではない。スケートリンク、トレーニングセンターの数も少ない。アイスリンクはショッピングセンターの中で、常に一般の人たちが滑っている環境で練習しなくてはなりません。エキスパートも少ない。
例えば、米国のスケート選手はアイスタイムも多いし、大衆のことを心配しないで、簡単に練習し、上達できる。ここではそれが難しい。さらにコーチを見つけるのも大変です。コーチたちにしても、日本や米国、カナダに比べたらそんなに経験を持っていない人が多い。
そんな中で練習していると、結局絶望して多くの選手はやめてしまうのです。「ああ、なんてことだ。とても大変だ。無理だ」となってしまう。モチベーションを保つためには、かなり強い意志が必要なんです。
ーーその後カナダに移りますよね。
高校を終わって、1年マレーシアでサンウェイ大学の基礎プログラムを受けた後で、2016年にカナダに移りました。専攻はマネジメントです。
ーーいつ頃からオリンピックを意識するようになりましたか。
もしかしたら、行けるかもしれないと思うようになったのが4ー5年前かな。いけるかな?(Maybe its possible)と思い始めた。僕たちは非常に現実的なんでね。けれど、2年前には、「Very possible」だと思うようになりました。でもまだ祈る気持ちだった。そのためカナダに移りました。ステップ・バイ・ステップです。10年後にはトップ5になり、さらに10年後に1位になる。
ーー初のオリンピック代表となり、プレッシャーはありましたか。
正直、最もプレッシャーだったのは、オリンピックではなく、オリンピックに出るための資格を得ることでしたね。
オリンピックはすべての瞬間を楽しみました。最初の機会だから、そこまで期待は大きくないし、プレッシャーはありませんでしたし、むしろとても楽しかった。ベストを尽くそうと。
オリンピックはすべてが大変大きい。何より選手村が驚くほど大きかった。セキュリティも大変厳しく、とてもよくオーガナイズされていたことに驚きました。いろんな種目のアスリートたちと一緒に過ごすことができた。
僕がオリンピックに出たことで、マレーシアや東南アジアのスケーターたちに希望を与えることができたと思っています。
ーーところで、ジュリアン選手はクラシック音楽よりもポピュラー音楽を使うことが多いですが、なぜでしょうか。
そうですね。僕はそんなにクラシックが得意じゃない。クラシック音楽と繋がるのはまだ難しいんです。
それに、クラシック音楽を使うなら、敬意を持ってちゃんと理解して使いたいですね。もし僕がクラシックで滑って、クラシックが好きなお客さんが見てあまり良くなかったら、それは残念。だから、ちゃんとその価値がわかるまでは、まだ使わない方がいいかなと。
いつかクラシックを理解するようになったら挑戦するかもしれません。
僕のスケートスタイルはもっと楽しくてエモーショナルなので、ポピュラー音楽の方が合っています。
ーー曲は誰が選んでいますか?
僕とコーチ、振付師で決めています。
ーー衣装はどうしていますか。
僕はダイヤモンドなどのデコレーションが付いたものよりは、とてもシンプルなのが好きですね。
衣装はオリジナルで製作してもらうことが多いです。アスリート用の服を作っている人にお願いするのですが、素材が特殊です。伸び縮みする生地でないと演技の途中で破れてしまうのです。
ーーエキシビジョンでの掃除婦の格好が話題になりましたよね。
あれは自分で決めたアイデアなんです。ショープログラムだから、お客さんを楽しませたり、笑わせたりしたいなと。みんなが眠くならないように、ストーリーを作ってモップを使ったりと工夫しました。カナダやマレーシアで小道具は一つ一つ買い揃えたんですよ。
ーーマレーシアのスケート環境は変わりましたか?
それでも、僕がスケートを始めた頃より、ずっと環境は良くなりました。マレーシアでもIOIやジョホールバルにもできました。スケート場は今マレーシアに5つあります。
しかし、マレーシアのスケート場は、温度管理もショッピングモールの中なので完全にはできず、コンディションは良くない。そのため、早朝や深夜、人がいない時に練習せざるを得なかったりすることもありました。プロフェッショナルとしてトレーニングするには非常に難しい環境なんです。
それでも、今はどんどん子供たちが趣味としてスケートを楽しむようになって来ました。
ーー他の東南アジアの状況を教えてください。
どこもマレーシア同様、スケート人気が盛り上がって来ました。周辺国で言えば、一番良いのはタイですね。バンコクだけで10もスケートリンクがありますし、郊外にはプライベートなスケート場もあります。ベトナム、インドネシア、フィリピン、カンボジアなんかでもスケートが盛んになって来ました。
ーー今後の目標について教えてください
カナダに戻ってトレーニングや勉強を続けますが、シーズンが8月にスタートします。次はうまくいけば、USA、カナダ、日本、中国などでやる7箇所でやるISUグランプリ・シリーズに招待されるのが目標ですね。
ーー夢はありますか?
夢というか、僕のゴールは、マレーシアや東南アジアでスケートをもっと広めていくことですね。もっとたくさんのスケーターがオリンピックに行けるようにしていきたいし、スケートの学校も作りたい。今もスケートの学校はありますが初級者向けで、オリンピックを目指すような上級者向けの学校や施設はまだないんです。
ーーありがとうございました。