第5回 呼称「マレーシア」とは何を指すのか?

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 9月16日はマレーシア結成記念日です。1963年に当時のマラヤ連邦からシンガポール、サラワク、北ボルネオ(現在のサバ)を加えて領土を拡大したマレーシア連邦ができた日です。この経緯については教科書的にお話してもつまらないので、今回は、学者の間でもほとんど議論されていない呼称「マレーシア」がどのように使われてきたのかをお話しします。

 

「マレーシア」はもともとフィリピン、台湾まで含む地域名だった!?

 

 「マレーシア」という呼称は1963年のマレーシア連邦結成時に突然出てきた名称ではありません。この言葉はもともと19世紀前半ぐらいから現在のインドネシア、フィリピン、台湾などを指す地域名として使われていました。

 

 1830年代のフランスの探検家の資料によると、すでにこの時代のフランスではMalaisieとして探検家や地理学者などの間で結構使われていたようです。誰が命名したのかはっきりしませんが、太平洋南部あたりを探検した西洋人が作ったのでしょう。

 

 その後、このフランス語呼称が英語に移り、「Malaysia」になって使われ始めました。1839年に出版された『The Claims of Japan and Malaysia Upon Christendom』という本で「マレーシア」を使っていますが、この本のなかで定義はありません。広く太平洋南部の旅行について語っていますが、定義は当時自明の理だったのでしょう。その後も英語で出版された旅行記ではときおり出てくる言葉なのです。

 

 1863年に自然学者アルフレッド・ワレスが有名な『マレー諸島』を出版し、欧米でベストセラーになりました。ワレスは「マレー諸島」を使いましたが、実は1883年に出版した彼の別の書籍『オーストラレイシア』では明確にマレーシアを定義し、マレー諸島(つまり、現在のフィリピンやインドネシアなどを含む)と同じ意味で使っているのです。また、欧米での新聞でもマレーシアが頻繁に使われ、当時の社会ではこの言葉が一般的だったことが伺えます。

 

19世紀後半から徐々に定義が縮小

 

 1890年代になると、「マレーシア」は、「マレー諸島」と同義語で使われたほか、「マレー半島のみ」を指す英国の新聞も出てきました。
 また同時期から20世紀に入ったころ、米国のメソジスト系キリスト教布教団体がマレーシアをよく使い、シンガポールの『ストレーツ・タイムズ』でも頻繁に紹介されました。しかし、1905年に団体が「フィリピン支部」を作ったため、フィリピンが「マレーシア」から外れ、キリスト教布教団体の間では地域としての「マレーシア」は少し狭まったのです。

 

 実はフィリピンの英雄、ホセ・リザルも地域名としてのマレーシアを知っていました。この後のナショナリストらも「マレー人」(注)をベースとした国家の創設を目指します。そのなかでも1932年にはフィリピンの政治家ウェセスラオ・ヴィンゾンズ氏が学生時代に「マレーシア共和国」の創設を訴えました。彼はその後、日本軍に殺害されますが、マレーシアを国家名として使おうとしたのはこれが史上初めてです。これはフィリピンやインドネシアなど現在の東南アジア島しょ部をカバーした国家を模索したものでした。

 

 一方で、アメリカの政治学者ルッパート・エマーソン氏は1937年に『マレーシア』をタイトルにした有名な書籍を出版します。彼は書籍のなかで「この名称はあまり知られていない」と語っていますが、この頃は実際出版業界ではさほど使われていませんでした。彼のマレーシアはマレー半島のみで、それまで使われていた定義とは違っていました。

 

 ちなみに、「インドネシア」も1920年代前まではマレーシアと同じ定義で使われていました。現在のインドネシアのナショナリストらは一時期、フィリピンのナショナリストたちを「インドネシア人」とも指摘していた時期もありましたが、最終的に現在の国家枠の名称に落ち着きました。

 

戦後に国名として再登場

 

 第二次世界大戦後でも、「マレーシア」はあまり使用されていませんでした。

 

 1956年ごろから統一マレー人国民組織(UMNO)を中心とした政治勢力が独立を目指しますが、この際に独立国の名称を2つ提案。そのうちの一つがマレーシア。しかし、マラヤ華人協会(MCA)は猛反対して「マラヤ連邦」を主張。英国は「マレーシア」にあまり好意的ではなく、MCAの主張する「マラヤ連邦」を推して1957年8月末に独立しました。ちなみに、提案されたもう一つの名称は「ランカスカ」。6~8世紀にマレー半島北部にあったと思われる王国の名前が提案されました。

 

 そして、1961年に当時のラーマン首相はシンガポールなどを含めた「マレーシア連邦案」を発表しました。すでに英国から独立していたため、国名については与党UMNOの希望通り命名されたのです。

 

 1965年になるとシンガポールが分離。ラーマン首相もやむなく認めましたが、領土を武力でもって守るのではなく、話合いで分離させたというところも前回お話したのに通じるところがあるのでしょう。サバ州が一時期分離を模索した時期がありましたが、マレーシアはこうして現在の形になったのです。

 

(注)ホセ・リザル以前からフィリピンのナショナリストらは、東南アジア島しょ部全域をほぼカバーするマレー・ポリネシア語族をしゃべる人たちを「マレー人」と言っていました。現在のマレーシアではマレー人を「イスラム教徒で、マレー語を話し、マレー文化に従っている者」と憲法で規定していますが、これは多民族国家のなかで定義を狭めてアイデンティティーを確立するためでした。もともとは広い意味で使われていたのです。「マレー人」の定義の起源などについては学者の間でも長く議論がある用語なので、ここでは割愛します。

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。

 

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