第8回・クアラルンプールの始まりと発展

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 マレーシアの首都として知られるクアラルンプール。この街はスズ鉱山と共に発達してきたのですが、あまりその起源については知られていません。今回はこの街がどのように作られ、マレー半島の中心地となっていったのかをみてみます。

スズ鉱山の採掘とともに街は誕生した

 

 19世紀のマレー半島はスズ採掘として世界で有名でした。採掘は各地で15世紀からマレー人の手で細々と行われていたようで、クアラルンプールなどを流れるクラン川上流でも採掘されていました。1820年代にマレー人が住む23村(人口約1500人)のうち8村がスズ採掘をしていたようです。

 

 その後、スズを大量に産出できる新技術が取り入れられ、中国大陸から来た中国人らがスランゴール州など各地で積極的に採掘を始めました。さらなる鉱山を発掘しようとスランゴールのクラン領主ラジャ・アブドラが1857年、中国人労働者87人をクラン川上流に派遣。その途中で一行はクラン川とゴンバック川の合流地点に下船しました。そこが現在のムスジット・ジャメで、泥の合流地点の意味でクアラルンプールと名付けられたのです。ちなみに、中国人一行はそこからジャングルを切り開いて、3~4キロほど進み、現在のアンパン地区に鉱床を発見。スズ採掘を進めたものの、1カ月以内にマラリアが原因で69人が死亡しました。

 

 クアラルンプールの本格的な発展は1859年以降です。アンパン地区に物資提供のため、中国人やスマトラ島出身の商人らが、この川の合流地点周辺に商店をオープン。これに伴い、スマトラ人や中国人が多く住み始め、街は発展していったのです。つまり、スズ鉱山の採掘がなければ、クアラルンプールという街は生れなかったのです。

 

中国人の努力で街は発展した

 

 当初のクアラルンプールは、現在のムスジット・ジャメ近くの通りLeboh Pasar BesarとLeboh Ampangの交差地点にあった市場が中心地でした。そこから採掘場につながるJalan AmpangやJalan Pudu、Jalan Petalingが作られました。

 

 そして、クアラルンプールが街として発展したのは中国人、葉亞来(ヤップ・アーロイ)の登場によるものが大きいのです。中国人社会の代表者として3代目の「カピタン・チナ」に1868年に就任。現在港のあるクランの統治を巡る内紛と中国人同士の抗争が複雑に絡まったセランゴール内戦の真っ只中に就任しました。この内戦でスズ鉱山の活動は停止しており、クアラルンプールは内戦が終わる74年頃までに3回の焼き討ちに遭いました。

 

 内戦が終結し、荒廃しきった街の立て直しのため、葉はまず鉱山活動を再開させました。それまであった道路を再整備したほか、クランやダマンサラ地区にも道を敷いて、経済活性化を促しました。

 

 驚くべきことに、クアラルンプールの復興費用は、ほとんどが葉自身の多額の借金によるものでした。このため、この時期の葉の生活は惨憺たるもので、英国植民地政府も葉の負債額の多さを心配するほどでした。しかし、1879年にはスズの国際価格が大幅に上昇。鉱山も再び活気に溢れ、彼の負債は激減したのです。

 

 1879年のクアラルンプールの総人口はわずかに2330人程度。街が活況を取り戻して経済の中心地となったことから、英国植民地政府は1880年にクランからクアラルンプールにスランゴールの政治と行政中心地を移し、英国理事官も駐在することになりました。
 しかし、1881年に大火事が発生し、木造建築物からなる街はほとんどが焼失。英国植民地政府は葉にレンガ造りの建物にするよう要請し、レンガ製造場として現在のBrickfields地区が生まれました。なお、この頃までクアラルンプールはQualla Lumporと新聞などで綴られてました。
 1896年にはマレー連合州が創設されます。クアラルンプールはその首都となり、現在に至るまでマレー半島の中心都市となっています。
 

 

なぜ連邦直轄区なのか

 

 クアラルンプールは、行政管轄でマレーシア連邦直轄区の一つとなっており、これを管轄する大臣が置かれています。連邦直轄区はこのほかラブアン島とプトラジャヤですが、そもそもクアラルンプールがなぜ直轄区になったのでしょうか。

 

 直轄区になったのは、1969年5月13日の人種暴動と無関係ではありません。人種暴動直前に下院議員総選挙が行われ、与党が大敗し、野党の華人系政党が躍進しました。これを引き金に暴動が発生したのですが、当時の連邦政府はこの悪夢を全力で回避することに力を注ぎます。
 当時のラザク首相は1974年の下院議員総選挙前にクアラルンプールを連邦直轄区として新しく行政区分を創設しました。クアラルンプールは華人有権者が多く、その多くは野党系に投票したため、スランゴール州内の野党勢力を引き裂くことを目的として直轄区は作られたのです。1974年の総選挙では与党が勝利したので、露骨に選挙区を丸ごと分断したことは功を奏したといってもいいでしょう。

 

 クアラルンプールは今でも首都であることは変わりませんが、行政機能は1999年に本格的に始動したプトラジャヤに移転しています。クアラルンプールはマレーシアでのビジネスや観光の一大都市であり、これは今後も不動であり続けるでしょう。 

 

 
 
 
伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。
 

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