第13回 人気観光地キャメロン・ハイランズ

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観光客に人気のパハン州のキャメロン・ハイランズ。ここは昔から西洋人の避暑地として有名で、現在は国内随一の野菜の生産地としても知られています。しかし、あの山の中になぜ避暑地を造りあげたのでしょうか。

 

キャメロンとは人の名前だった!

 

 ジャングルが鬱蒼とするマレー半島を植民地化しつつあった19世紀に、英国人の測量士で探検家のウィリアム・キャメロンは、現在のパハン州とペラ州にまたがるティティワンサ山脈周辺の地図作成を行っていました。ゾウにまたがり、数カ月にわたって踏査していたのです。

 

 キャメロンは現在のイポー近郊のタンジュン・ランブータン地区からキンタ川の上流に向かい、そこからさらに奥地へ進み、周辺を見渡せる山の頂上に到達。1885年にここで「1350メートルほどにある高原を見た」と地図作成のメモに書き残しました。踏査後にシンガポールに戻りましたが、キャメロンはそこで急死。メモは英国政府に保管され、内容を精査されたものの、この高原の位置は不明のまま、20世紀に入りました。

 

 1920年代に入って、さらに何人かの測量士などがジャングルをかき分けて何度か調査をした結果、この高原の位置がようやく判明したのです。この踏査の報告書で高原の気候が農作物の耕作に適していると指摘し、当時のペラ州駐在理事官ジョージ・マックスウェルがこの高原を訪問して本格的な開発することを決断しました。そこでこの高原を最初に踏査したキャメロンにちなんで、「キャメロン・ハイランズ」と名付けられました。

 

農作物栽培の拠点に

 

 1925年に英国植民地政府は紅茶やコーヒーの栽培を実験する連邦実験所を設立しました。ここで紅茶の栽培が成功。この成功に目をつけたのが、スズやゴム産業、建設業に投資していた英国人のジョン・アーチボールド・ルッセルでした。彼は植民地政府に紅茶栽培のための土地の取得を申請して認可され、1929年にスリランカで紅茶栽培をしていたA.B.ミルネと事業を開始したのです。草木が生い茂るその土地を開墾し、この紅茶農園の栽培は現在も続けられています。これが有名なボー・ティー(Boh Tea)なのです。ちなみに、ボー・ティーは中国茶を知った西洋人がその代名詞としても使った単語である「BOHEA」に由来し、福建省の武夷山で採れる中国茶の「武夷茶」の福建語読みをしたものです。

 

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 そして、キャメロン・ハイランズの麓にある町タパーと高原を結ぶ道路が1931年に完成。高原は徐々に開発されていき、丘陵地にはトマトやイチゴなどの畑ができていきました。1930年代には日本人の農家もでき、キャベツなど野菜を作っていた記録も残っています。

 

 また、涼しい気候のため、英国人らは避暑地としても高原を利用。現在のキャメロン・ハイランズのタナ・ラタ地区やブリンチャン地区を中心に学校やゴルフ場、ホテルもこの頃にできあがったのです。1934年末の人口は3000人近くにまで増加していました。しかし、今とは違い、キャメロン・ハイランズには虎などの野獣が出没して、家畜を食い殺したり、マラリアや小児まひが住民の間で流行するなど決して安心して生活できる環境ではありませんでした。
 

 

戦後になって一躍有名に

 

 マレー半島が日本軍に占領された時期は、開発がほとんど進みませんでした。

 

 戦後になって1948年にはマラヤ共産党が武装蜂起し、キャメロン・ハイランズには多くの英国人らが住んでいたこともあって、この地区は共産党の標的となりました。英国軍がこの高原にも駐屯。同年に発令された非常事態宣言が解除される1960年まで英国軍は滞在していました。

 

 英国人らは気候や建物や食事が英国と同じような環境であったことから静養先としても楽しみ、国内外の新聞などでも取り上げられ、多くの著名人らを惹きつけました。

 

 その一人として訪れたのがタイのシルク王として有名なジム・トンプソンでした。1967年に保養のため、夫人らと滞在。しかし、滞在数日後に忽然と姿を消したのです。警察の懸命な捜索にもかかわらず、何の手がかりになるものも発見されませんでした。当時の新聞では原住民サカイ族の女性と駆け落ちしたとの憶測も出ましたが、今もって消えた原因はわかっていません。最近の調査ではマラヤ共産党によって誘拐され、殺されたとの見解も出されています。

 

 そして、その2年後の1969年には第3回東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議が当地で開かれ、国内外ともに広く知れ渡るようになりました。
 現在は3万人以上が居住し、華人がその多くを占めています。数年前には新しい道路も開通し、ホテルなども次々とオープン。国内外からより多くの観光客を呼び寄せています。

 

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。

 

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