第14回 マレーシア与党UMNOと創設者ダトー・オン

rekisi

 

 今年はマレーシアの下院選総選挙の年です。下院議員の任期満了は6月24日までとなり、その前に解散がなければ、この日から60日以内に選挙が実施されます。マレーシアの政党について触れる機会はあまりないので、今回から数回に分けて、政党の勃興史について話します。まず、初回は1957年のマラヤ独立以前から与党として勢力を維持していた統一マレー人国民組織(UMNO・アムノ)についてです。

 

マラヤ共産党が政党のはじまり

 

本題のUMNOに入る前に、UMNOの前にどんな政党があったのかを見てみましょう。

 

 政党として最も早くマレー半島で設立されたのはマラヤ共産党です。1928年にシンガポールで結成された南洋共産党を前身として1930年に創設されました。大きなトピックですので、ここでは割愛しますが、そのメンバーの多くが華人であったことは無視できません。

 

これに対して、1937年6月、左翼的思想をもったマレー人、イブラヒム・ヤーコブらが「マレー青年統一連盟(KMM)」を結成。マレー人が中心の組織で、幹部はスマトラ島からの移民が占めました。反植民地主義を標榜し、植民地体制によって政治的に切断されたマレー半島と現在のインドネシアの統合を訴えたのです。しかし、マレー人の間ではあまり浸透せず、植民地政府からの弾圧も受けて活動はままなりませんでした。

 

 イブラヒム・ヤーコブは1945年にインドネシアに「亡命」したため、残されたメンバーだけでマラヤ・マレー国民党(KPMM)が同様の主張で結成されました。しかし、こちらもマレー人の間で大きな勢力となることなく、歴史の彼方に消えていくことになります。

 

マラヤ連合反対でUMNOが出現

 

本格的に政治的な勢力として生まれたのが、1946年3月に創設されたUMNOです。UMNOが結成されたきっかけは、1945年に「マラヤ連合」構想をイギリス植民地政府が画策したのがわかったためです。

 

 「マラヤ連合」とはのちの「マラヤ連邦」の原型になるものですが、マレー人にとってこの構想は受け入れがたいものでした。スルタンの権限の縮小や中国人などの移民も含めて平等に市民権を付与することに対し、マレー人は激怒したのです。当時は中国人の人口が一部の州ではマレー人を上回っていたため、中国人人口が増加することで政治的に力を失うのではないかという危機感もありました。また、マレー人にとって重要な問題をスルタン9人だけが決めたことにもマレー人は怒りました。
 そして、この問題に猛反対して一躍有名になったのが、ジョホール州出身の政治家のダトー・オンなのです。彼は汎マラヤ・マレー会議を開催し、数万人の抗議集会を開催。マレー人社会の広範な支持を得て、同年3月にUMNO(マレー語略はPEKEMBAR)を創設して総裁に就任しました。英語名は45年に創設された国際連合(UN)を元に考案されましたが、現在でもマレー語略を使うことはほとんどありません。

 

 彼の功績はマレー人のための政党UMNOを創設しただけでなく、それまで各州バラバラだったマレー人のアイデンティティーを一つにまとめて覚醒したことにもありました。つまり、クダ・マレー人やスランゴール・マレー人といった意識よりもより広範で州の境を越えたマレー人の意識を覚醒させたのです。

 

 イギリスは1946年にマラヤ連合を一方的に導入したのですが、彼はここでも強力なリーダーシップを取ります。それまでのスルタンはマレー人にとって現人神のような存在でありましたが、オンは「マラヤ連合の創設式典に出れば、マレー人大衆を敵にまわすことになる」とスルタンたちを脅しました。スルタンたちも大衆なくして自分たちの地位が保持できなくなることを認識し、それまでのUMNOによる大衆動員もわかっていましたから、この「脅迫」を深刻に受け止め、イギリスの式典にスルタンは誰一人として出席しませんでした。スルタンの権限で物事が決められるのではなく、大衆の多数意見が政治に反映させるようにしたオンの功績はここにもあります。

 

現在の政党体制ができたのは1950年代だった

 

 しかし、オンは1951年にUMNO総裁を辞任します。独立に向けて非マレー人への党員拡大を主張しましたが、党内で猛反対に遭ったためです。この頃からオンは華人やインド人との協力なくしては独立は得られないと認識しており、そのためには一つの政党にさまざまな民族が加入できるようにしたかったのです。

 

 オンは総裁辞任後に全民族の統合を目指した独立党(IMP)を設立しました。しかし、翌年に実施されたクアラルンプール市議会選挙でUMNOは1949年に創設されたマラヤ華人協会(MCA)と選挙協力して圧勝した一方で、IMPは惨敗して解党しました。オンは再びマレー人の利益を追求した国家党を設立しましたが、その後の地方自治体での選挙でもUMNOとMCAの連合体制が支持を得られていきました。

 

 1954年にはマラヤインド人会議(MIC)が創設され、UMNOとMCAの連合に参加。協力体制の名称は連盟党となり、現在の国民戦線(BN)の前身となります。

 

 戦後から1950年代に政党はすでに民族別に分かれて創設されました。その皮切りがUMNOだったと言っていいでしょう。その後にMCAやMICといった政党もでき、各民族の利益を追求した政党が出てきます。

 

 オンがIMPという民族に隔たりない党員の拡大を目指したのは失敗に終わりましたが、現在ある政党のなかで人民正義党(PKR)がどの民族出身であろうとも党員になれる仕組みになっており、ある意味でオンがある時期に実現したかった政党になっているのではないでしょうか。

 

 ちなみに、ダトー・オンは1959年に下院議員となりましたが1962年に逝去。家族には嫡男で第3代首相となったフセイン・オンと孫で現職の国防相であるヒシャムディンらがいます。

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。

 

マレーシアマガジンへのお問い合わせはこちら