第19回 マレーシアから大規模コーヒー農園が消えたわけ

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コーヒーの生産地といえば、南米のブラジルやコロンビアが有名ですが、実はマレーシアでもコーヒー栽培が一時期盛んでした。しかし、さまざまな理由から跡を消し、現在マレーシア産コーヒー豆の生産は少ないのです。なぜでしょうか? 今回はマレーシアのコーヒー農園の歴史を読み解きます。

 

昔は大規模なコーヒー農園があった

 

 マレー半島でのコーヒー農園は1779年にマラッカにあったことが記録されています。しかし、本格的な農園ができあがったのは19世紀に入ってからで、セイロン(現在のスリランカ)が深く関わっていました。

 

 英国の植民地下であったセイロンは19世紀、コーヒー栽培が活発で、コーヒー農園360カ所以上で栽培されていました。英国はコーヒー栽培に力を入れていましたが、1869年に「さび病菌」というコーヒーの葉に付着するカビが蔓延し、島全体に広がってほぼ壊滅状態になったのです。

 

 これはセイロンでほぼ回復不可能な状態にまでなったようで、セイロンの英国人らは、気候が類似して、豊富な未開拓の土地があり、英国植民地下であったマレー半島に着目しました。1870年代に入るとコーヒー農園が次々と開園していきます。ジョホール、ペラ、ヌゲリ・スンビラン、スランゴールの各地で栽培を始めました。

 

 セイロンでのコーヒー栽培は高地で育つアラビカ種でしたが、この種はマレー半島の土地には適していませんでした。スランゴール州クランで1882年、偶然にリベリカ種の栽培が成功したことがきっかけで、同種の栽培が進められていきました。

 

 この時代のマレー半島はスズに依存する植民地経営であったことから、英国はこれを多角化するため、コーヒー農園の開園を推奨し、政府貸し付けや寛大な条件で土地の貸与が行われました。ジョホール王国のスルタンも積極的に開拓者を受け入れ、以後マレー半島でコーヒー栽培ブームが巻き起こりました。

 

コーヒーの生産ブームが到来でバブルも

 

 すでにコーヒーで有名だったブラジルでは、奴隷制を廃止する奴隷解放法が1888年に成立し、コーヒー農園で従事した奴隷が解放されました。これに伴い、ブラジルでは労働力が大幅に不足したと同時に、コーヒー生産量も低下。コーヒーの国際価格も高騰しました。

 

 こういった状況からマレー半島はコーヒー生産地として一躍注目を浴びることになり、その後も多くの農園が次々と開園されるに至ったのです。

 

 記録によると、ペラのコーヒー農園面積は1890年に480ヘクタールだったのが、5年後には14,250ヘクタールにまで拡大。その他の地域でも軒並み農園面積は増え、ヌゲリ・スンビランのスナワンやスレンバンにも開園しました。スランゴールではダマンサラに農園があったほか、クランには、胡椒農園がコーヒーに転換され、港やクアラルンプールに近い立地条件もあって、ピーク時には30以上の農園がひしめきあいました。

 

 コーヒーブームの絶頂期であった1895年、植民地政府は、土地の年間賃貸料を二倍に引き上げ、さらに約130ヘクタールに区分けした形で貸し付けていました。植民地政府は土地の競売も導入したため、多くの投資家らも農地を購入し、一種の土地のバブルが到来したのです。

 

カラスの到来と閉園

 

 しかし、ブームはあっという間に過ぎ去り、農園は次々と閉鎖されていきます。
セイロンで発生した「さび病菌」が1894年ごろにマレー半島のコーヒー農園でも発生。リベリカ種は抵抗力が強いため、被害は拡大しなかったものの、ガの一種のオオスカシバの幼虫が異常発生したことで、コーヒーの葉が食いつぶされ、多くの農園が閉鎖に追い込まれました。植民地政府はこの幼虫を撃退するため、それまでマレー半島にはいなかったイエガラスをセイロンから船で輸入。しかし、その苦労は奏功せず、生態系を変える功罪を残しました。

 

 また、土地に関しても問題が発生。そもそも植民地政府は競売する土地を精査せずに売却を始めたため、コーヒー栽培に適していない土地も売却していました。クランの農園主2人が買った土地が泥炭地であることが判明したニュースはたちまち世界中に知れ渡りました。投資家らはクランの土地を売り始め、コーヒー農園も激減していったのです。そのうえ、1895年以降はコーヒー国際価格が下落し始め、1899年にはピーク時の半分にまで落ち込み、マレー半島でのコーヒー栽培の激減に拍車を掛けました。

 

そもそもマレー半島でのコーヒ栽培には無理があったといっても過言ではないでしょう。コーヒー栽培はジャングルを切り開き、道路の敷設から始め、労働者をインド南部から連れて来るために莫大な初期費用もかかりました。長期間にわたって利益が見込めないことから、中国人はほとんど興味を示さずに終わったことも失敗した要因です。

 

さらに、マレー半島で栽培されたリベリカ種は、成熟に時間がかかる上、収穫量が極端に少なく、生産性が合わないこともその一つとして挙げられます。

 

 こういった要因も絡み、20世紀に入る頃までに多くの農園主らはコーヒー栽培を断念していきました。代わりにその農園にはゴムの木が植えられ、その後マレー半島の一大産業になっていきます。コーヒーの栽培面積は一時期1万ヘクタール以上ありましたが、1909年の記録では、マレー半島全体で2,400ヘクタールにまで減少しました。現在では各州に小規模の農園があるのみで、コーヒーは主要産業にはなっていません。

 

しかし、農園主らはコーヒー農園の失敗を糧にゴム農園を開きました。この失敗があったことで現在のゴム産業があったといってもいいのではないでしょうか。

 

 

伊藤充臣■在馬12年目。マラヤ大学の歴史学科で修士号と博士号をだらだらと10年がかりで取得。趣味は読書と語学勉強。最近は日本の小説に読みふけっていると同時にミャンマー語の勉強も始めた。

 

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