第26回 大学卒業に20年かけた独立の父 その1

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今年はマレーシアが独立して61年目。8月31日と9月16日はマレーシアにとって独立記念日・マレーシア結成日と大きな2つの記念日があります。今回から独立の父として有名な初代首相のトゥンク・アブドゥル・ラーマン(1903~1990)の軌跡を辿ってみましょう。2回に分け、第1回は独立まで、第2回は独立からマレーシア結成を経て辞任する1970年までをみます。
 

語学に堪能だったラーマン

 
ラーマンは1903年にクダのスルタンの子として誕生しました。母はビルマ人の血を引くタイ人で、8人いたスルタンの6番目の妻の子どもでした。兄弟姉妹は12人おり、異母兄弟はなんと46人もいたなかで育ったのです。
母親が子どもたちを主に世話していました。精神的な病があったとされる父親のスルタンとは別に暮らし、毎週金曜礼拝の後にスルタンが母子を訪れていたといいます。
 
ラーマンは、アロースターの英語学校に通っていましたが、10歳のときにバンコクに留学。これはクダが長くタイの支配下にあったことやタイの血を引く母親との関係が深く関わっています。兄とともに過ごした3年の間にタイ語を習得しました。ラーマンはマラヤ連邦の独立後、国会で「タイは自分にとってセカンドホームだ」と答えるほどタイへの親近感を示していました。
クダに帰ってきた彼はその後、ペナンの英語学校「フリースクール」に入りました。このときから英語が好きになったようです。
1920年頃にクダでは英国留学の奨学金を支給し始めます。その最初の学生としてラーマンが選ばれ、17歳のときにケンブリッジ大学に留学したのです。つまり、このときまでにラーマンは少なくともマレー語、英語、タイ語の3言語を話すようになっていました。
 

英国留学で遊びほうける

 
ラーマンは、クダの摂政の指示で同大学法学部に入りました。しかし、まったく法律に興味がなかった彼は毎日のようにラグビーなどのスポーツに明け暮れていました。学生の大半は英国人でしたが、タイ人も数人おり、言葉もできたことから彼らともよく遊んでいました。また、王子だったのでお金もあったらしく、英国で当時としては珍しいスポーツカーを運転。大学には10年間も在学していましたが、この間にスピード違反で28回も捕まるなどやんちゃぶりも発揮していました。
 
興味のない法律の勉強が進まなかったのか、入学してからしばらくしてラーマンは帰郷することを決意。しかし、クダ摂政から法学士を取得するよう説得され、数カ月後に再び英国に戻りました。
この頃になると英国にはマレー人の学生も増え始めていました。しかし、まったく互いに無関心であることに懸念をもち、ラーマンは「英国マレー人協会」を設立。30人ばかりが参加して彼は事務局長に就任しました。また、アジア人としてしばしば差別されました。大学では入寮許可が下りなかった経験もあり、反帝国主義の考えも芽生え始めました。
しかし、やはり法律には興味がまったく沸かなかったため、大学の試験では相次いで不合格。指導教官の勧めでラーマンは故郷に戻ることになり、クダの役人として働き始めました。
 

20年かけ45歳で大学を卒業

 
1931年にクダに戻ったラーマンはクリムやランカウィなどの役人として灌がいや貧困対策などに関わりました。
しかし、日本軍がクダを占領。このときは治安関連の役職に就いていました。日本軍とはしばしば意見の相違でぶつかり、その後に解任され、教育関連の役人として勤務。また、あまり知られていませんが、まだ占領下の19
1944年にラーマンの友人らが独立と社会主義を掲げて結成された「Saberkas」の後援者ともなっていました。
 
戦争が終わり、1946年にマラヤ連合が導入されると、Saberkasのメンバーらは反英活動の一環として武力行使を主張します。これを拒否したラーマンは後援者を降りましたが、この頃になるとクダの貧困状況などを考慮して改革の必要性を痛感。このためには今一度法律の勉強をする必要があると考え、同年末に英国に再留学し、1年半滞在します。この時期の滞在がなければ、おそらくラーマンはその後の独立のキーパーソンとなる人たちには会わなかったのです。その1人が右腕となるラザク氏(ナジブ前首相の父親)でした。
 
ラザク氏はパハン州の貴族の息子として生まれ、1947年から英国で法律を勉強していました。ラーマンとは出会ってからすぐに意気投合したようです。そして、政治的な話もするなかで、ラーマンはマラヤの華人やインド人とともに独立するには民族融和の重要性を認識し始めます。
1948年にラーマンは法学試験に合格してついに学士号を取ることができました。齢45歳。足掛け20年以上をかけて大学を卒業したことになります。翌年には故郷に戻り、クダで次席検事として働き始めたものの、あまり満足はしていなかったようです。
 
その中で、1951年にマレー人統一国民戦線(UMNO)のダトー・オン総裁が辞任することになり、次期総裁としてラーマンに白羽の矢が立ったのです。ラーマンとダトー・オンは、すでに帰国していたラザクを総裁として推していましたが、ラザクは固辞。逆にラザクらはラーマンを粘り強く説得して総裁に立候補させることになります。総裁選の投票結果で、ラーマンはほかの2候補を抑えて圧勝しました。ただ、それまで政治経験が未知数だったため、総裁就任当時はあまり期待されていませんでした。
UMNOは当時、ジョホールのダトー・オンの自宅を本部としていました。彼が辞任したことで、UMNOは本部がなくなることになり、新しく本部を構える必要が出てきました。UMNOの政党としての資金繰りは非常に厳しく、新総裁となったラーマンは自宅や土地を売るなどして私財を投じて、本部の賃貸や運転資金の確保に努めます。
 

華人との協力を得て独立へ導く

 
そして、1952年にはマレー半島初の選挙となるクアラルンプール市議選がありました。英国政府が「実験」として初の選挙に踏み切り、ラーマンらは独立への試金石として位置づけていました。
独立するには華人との連合が極めて重要と認識し、ラーマンは選挙前にマラヤ華人協会(MCA)との選挙協力を取りつけました。この体制はのちの国民戦線(BN)の先駆けで、民族別の政党による連合の基礎を築いたのです。この連合が奏功し、市議選では圧勝しました。その後もイポーなどの地方選でも同様に勝利していきます。
 
1955年には立法評議会選挙が実施され、ここでも連合は圧勝しました。これが決定的な勝利となり、ラーマンはマラヤ連邦の初代首席大臣(Chief Minister)に就任。
1956年には独立交渉団を率いて英国に赴きます。この前にマラヤ共産党のチンペン書記長と会談したことは当時英国でも大きな話題となりました。共産党は当時、武装蜂起をしており、ラーマンらは独立前の武装解除を求めたのでした。
英国とのタフな交渉にもかかわらず、憲法策定や移民の国籍問題や教育問題といったさまざまな課題を英国政府と協議し、その結果、同年に独立することを認められたのでした。そして、1957年8月31日に独立を果たしたのです。
 
ラーマンはUMNO総裁になった当初はあまり期待されたリーダーではありませんでしたが、年々実力をつけていき、マレーシアを独立にまで導いたのです。
 
 
伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。
 

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