第27回  大学卒業に20年かけた独立の父 その2

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9月16日はマレーシア結成記念日でした。マレーシア史上初の政権交代からはじめての記念日でしたが、例年以上に華人らがマレーシア国旗を自宅などで掲揚していたのが印象的でした。さて、マレーシア結成を果たしたラーマン首相ですが、今回はその2回目。1957年のマラヤ連邦独立から1970年の辞任までをみます。

 

独立とはじめての総選挙

 

第一回はこちらから読めます。大学卒業に20年かけた独立の父 その1

 

1957年8月31日にマラヤ連邦が独立しました。ラーマンはそれまでの英国植民地の主席大臣だったため、初代首相となりました。この後、首相職は1970年までの13年間におよびます。

 

1959年にはマラヤ連邦独立後初の下院議員総選挙がありました。政治家として、民主主義の国での選挙は宿命です。あまり知られていないのですが、実は、ラーマン首相はこの総選挙前の3カ月は選挙運動に注力するために首相職を辞任しています。この3カ月間はアブドゥル・ラザク副首相が「首相代理」として職務に就き、与党の圧勝後にラーマン氏は再び首相職に復帰しました。両者は深い信頼関係で結ばれており、戦前にロンドンで知り合ってからラザク氏が1976年に死ぬまで交流は続きます。

 

ちなみに、この総選挙での州議会議員選挙ではクランタン州とトレンガヌ州は全マラヤ・イスラム党(PAS)に政権を奪取され、その後もイスラム色の強い州として今日まで至っています。

 

また、ラーマン首相は一時期を除き、首相職と外相職を兼任していました。個人的に外相職が好きであったことは回顧録で述べていましたが、諸外国との交渉などを直接対応することで、マラヤ連邦の外交方針についてもほぼ独自に決めていきました。

 

首相兼外相として初めての外遊は当時の南ベトナムでした。1975年に共産国家の北ベトナムがサイゴンを陥落させるまで続いた国家でしたが、ラーマン首相が訪問したのは1958年1月末。ゴ・ディン・ジエム大統領とも会談し、ここで共産主義による武力を批判しました。

 

一見、ラーマン首相は反共主義のようですが、国会やインタビュー記事では容共とも取れる発言をしています。武力で政権奪取をしようとする共産主義には反対と表明しましたが、共産主義の思想そのものについては否定も批判もしていません。マラヤ連邦とその後のマレーシア連邦の外交は中立主義を貫いていますが、ラーマン首相のこの考え方が国の外交方針の根底にあったとみられます。

 

マレーシア結成は実は8月31日だった!

 

1961年にラーマン首相はシンガポールで突如、シンガポールやサラワク、北ボルネオ、ブルネイを含めたマレーシア連邦構想をぶちまけます。この結成構想についてはさまざまな議論があります。ここではマレーシアの結成日をに焦点を当てましょう。ラーマン首相は結成日をマラヤ連邦の独立記念日の8月31日に設定していました。

 

現在のマレーシア結成記念日は9月16日ですが、そもそもなぜこの日になったのでしょうか。それはマレーシア結成が隣国との関係で2週間伸びてしまったためです。

 

1961年5月に結成構想を発表したとき、インドネシアのスカルノ大統領は明確な反対を示しませんでした。しかし、同大統領はその後に「新植民地主義」として痛烈に批判。フィリピンもスールー諸島のスルタンによる北ボルネオの主権を主張して反対します。

 

ラーマン首相はもともとスカルノ大統領とは反りが合わなかったようで、1956年にインドネシアを訪問してから不安に思っていたようです。マレーシア結成構想発表からその関係は悪化。1963年には3カ国首脳会談を通じて穏便に済ませようとしましたが、決裂します。

 

しかし、国連のウ・タント事務総長が仲介に入り、北ボルネオとサラワクでの国連による住民の意志調査を提案。この調査ののち事務総長から「(結成は)2週間は遅れる」とラーマン首相は伝えられました。1963年8月31日に結成させたい強い思いがありましたが、首相はしぶしぶ従うことにしました。ちなみに、マレーシア結成に尽力もしてくれたウ・タント氏に敬意を示すため、クアラルンプール中心部には「ウ・タント通り」があります。

 

国連の調査団9人が8月に北ボルネオやサラワクに入りました。途中、インドネシアのシンパや結成反対派に妨害されましたが、無事調査は終了。9月14日に事務総長はボルネオ住民の大多数がマレーシア結成に賛成しているとの結論を発表。2カ国はそれでも反対を表明しましたが、9月16日にラーマン首相はこれを押し切ってマレーシア連邦を結成させたのです。インドネシアによる「マレーシア粉砕」は1965年まで続き、サラワクなどでは爆弾が飛んできたりと多数の死者も出しました。

 

人種暴動と辞任

 

ラーマン首相の功績には東南アジア諸国連合(ASEAN)を1967年に結成させたこともありますが、ここでは割愛し、別途話をしたいと思います。今回はやはり1969年のマレーシア史上最大最悪の暴動であった人種暴動を取り上げなければなりません。

 

1969年5月10日にマレー半島で下院総選挙がありました(サバ州とサラワク州はマレーシア連邦下で初めての選挙でそれぞれ6月6日と7月4日投票を実施)。この総選挙では3党からなる与党・連盟党が103議席中66議席と前回(89議席)から大幅に議席を減らし、与党単独では憲法改正ができなくなりました。野党側が大躍進し、なかでも民主行動党(DAP)が13議席を確保。13日には連盟党とDAPの支持者がクアラルンプール市内で大規模に衝突し、約200人が死亡。これが5月13日事件(注)と言われます。この結果、政府は非常事態宣言を発して、憲法停止と議会凍結としました。

 

この選挙結果と事件に対してラーマン首相に批判が集中。マレー人以外に寛大な政策を取ったことで、マレー人から批判が起きました。ラーマン首相は華人を養子に迎えたり、また華人の友人が多かったりしたことから、華人寄りの政策を展開したとみなされたのです。有権者であるマレー人からは公然と辞任要求が展開され、その急先鋒が現在のマハティール首相だったのです。

 

ラーマン首相はこの事件以降、設置された国家運営評議会(NOC)のラザク議長(副首相)に実権を奪われ、統一マレー人国民組織(UMNO)のなかでも求心力を失い、1970年9月にラザク副首相に譲る形で退陣となりました。

 

ラーマン首相は「独立の父」と称され、マレーシア政治ではさまざまな実績がありますが、退陣時はほとんど評価もされずに政権から離れていきました。

 

退陣後はイスラム会議諸国機構(OIC)の事務総長に就任。また、英字紙『ザ・スター』で寄稿して当時のマハティール首相に対峙するなどし、最後までマハティール氏とは対決姿勢を示していました。

 

ちなみに、1969年の総選挙結果と5月13日事件は、今年5月の総選挙で国民の間であの悲惨な結果を想起させました。しかし、国民意識の成熟により今回は悲惨な事態とはならず済みました。当時の野党側(現与党)が冷静さを求めたことも奏功したようです。 

 

(注)5月13日事件について、政府はのちに、その原因は各民族による経済格差によるものと見解を出しました。

 

 

伊藤充臣■在馬歴13年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

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