第37回 地域名「TTDI」の元となった人物はどんな人だったのか

 

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日本人が多く住むクアラルンプール市内のTaman Tun Dr. Ismail。閑静で落ち着いた雰囲気の住宅街で、ヨーロッパ的な町並みもあり外国人も多いです。この地域は頭文字をとって通称TDDIと呼ばれます。Tamanはマレー語で「住宅街」の意味でも使われます。では、Tun Dr. Ismailとは誰のことでしょうか。今回は彼について迫ってみます。

 

華人の血を引いたマレー人の政治家

 

TTDIの名前の元となったのは、イスマイル・アブドゥル・ラーマン。1915年にジョホールのマレー人貴族の家庭に生まれました。父はジョホールの政治家で、独立後には上院の初代議長を務めました。祖父はイスラム教に改宗した華人でした。小学校時代にマレー人たちとよく遊んでいましたが、中学校の英語学校では、主に華人少女と仲良くなったといいます。兄弟姉妹は9人もおり、父親はこのほかにも10人ほどの華人の子供を養っていたようです。
イスマイルは医師を目指していました。シンガポールのエドワード7世大学薬学部(現在のマラヤ大学医学部)に入り、その後オーストラリアのメルボルン大学医学部を卒業。帰国してから、ジョホールで開業医となりました。
1936年に母が他界した後、父はジョホール・スルタンの勧めで、当時ジョホールの首相を務めていたダトー・オンの妹と再婚。この縁で1948年のマラヤ連邦結成後にイスマイルは、ジョホール州議会議員に指名されました。つまり、統一マレー人国民組織(UMNO)を創設したダトー・オンとイスマイルは血はつながっていないものの、親戚になります。
イスマイルは1950年に結婚。ペナンへの新婚旅行の途中で、独立の父で初代首相となるトゥンク・アブドゥル・ラーマンと出会いました。政治信条が違う義理の叔父、ダトー・オンがUMNOを離党した後、イスマイルは、新しい総裁となったラーマンのもとでUMNOのメンバーとなり、その右腕の一人としてイギリスとの独立交渉などにも立ち会いました。

 

初代米国大使として

 

1957年7月、イスマイルはマラヤ連邦の初代国連兼米国大使に内定し、米国ワシントンに向かいました。連邦立法議員でしたが、1年だけの任期を条件に大使職を受け入れたといいます。
彼の仕事はまずは大使館を建てることでした。独立でゼロからやらねばなりません。渡米して1カ月あまりで場所を決定。初期のワシントンの駐米マレーシア大使館はヒルトンホテルの向かいのビルでした。そして、国連のあるニューヨークの領事館事務所も決め、8月31日独立日の直前に慌ただしく一度クアラルンプールに戻りました。
正式な大使任命が下り、9月5日に米国に正式に赴任。翌週には初めて国連の一般総会で演説を行いました。彼は1日18~20時間働き、週4回はワシントンとニューヨークを行き来する生活。自伝のなかでも「生涯でこれほど懸命に働いたことはない」と記しています。
さて、独立したばかりなので、外交官もいません。そんな中、イスマイルは各国大使との意見交換、米国などへの融資引き合い交渉をしつつ、数人の部下に外交官教育を施していました。ただ、当時一等書記官として赴任していた、マラヤ連邦国王の次男トゥンク・ジャファール(のちに第10代マレーシア国王)の行き過ぎたわがままには、相当手に焼いたようです。ラーマン首相に交替を強く求めていました。
また、この大使時代には各国が中央銀行を置いていることを考慮し、中央銀行バンク・ヌガラの創設を首相に進言。翌年にはそれが実現しています。
さらに、東南アジアの中立化構想案をこの頃から練っていたようで、これらの構想はのちに結実し、マレーシアの中立政策や1971年の東南アジア平和・自由・中立地帯(ZOPFAN)につながっていきます。
元来、1年の任期を条件としていましたが、米国大使職が解かれたのは1959年1月。そして、帰国後は外務大臣に就任し、国の外交を担います。

 

波乱万丈のなかで大臣を歴任

 

ところが、イスマイルの外務大臣は1年ほどしかもちませんでした。当時の外交政策はラーマン首相が牛耳り、一時は外務大臣を兼任したほどでした。イスマイルの就任の翌年、ラーマン首相が中華人民共和国を容認する旨を非公式に発言し、これにイスマイルが激怒。辞任を突きつけましたが、諌められたらしく、以後は治安大臣や内務大臣を歴任しました。
しかし、それまでの激務が祟ったのか、イスマイルの健康は年々脅かされていきます。1967年にはついに医師の勧めで大臣を辞し、下院議員として政府を支えることにしたのです。
1969年に5月13日事件と呼ばれる人種暴動が発生。この事件翌日、当時のラザク副首相がイスマイルに内閣に戻るよう説得します。憲法停止や議会凍結などの国難を鑑みてイスマイルは内務大臣に復帰しました。それまでのイスマイルの運営能力や、暴動前にも遠慮せずに国内治安維持法(ISA)(裁判所の令状なしに拘束できる法律)を使って隠れ共産党員らを逮捕していたことも、考慮に入れられたようです。
そして、人種暴動事件の責任を取る形で1970年にラーマン首相が辞任。イスマイルは内務大臣から副首相に昇格したのです。
新経済政策(いわゆるブミプトラ優遇政策)を導入したラザク第2代首相と、華人の血を引き、穏健で華人からの信頼が厚いイスマイル副首相との間では政策をめぐり対立することもしばしばあったようです。人種暴動を機にラザク首相は独裁体制を模索したようですが、副首相が諌めたともいいます。また、暴動前にも政府批判を繰り返し、マレー人民族主義者とのレッテルを貼られたマハティール氏(現首相)をラザク首相は、与党の最高協議会委員に任命しました。イスマイルはこれを憂慮しており、在任中は「重し」の役割を果たしていました。

 

病でも副首相を続ける

 

ラザク首相はすでに白血病におかされているーー実は、イスマイルは副首相就任直後にこの事実を知らされました。首相の白血病は側近のみ数人しか知らない事実でした。
しかし、イスマイル自身もこの頃には重い病に罹っていたようです。人種暴動事件の国難で、国家を支える強い使命をもっていたイスマイルは自身の病も顧みずに仕事を続けます。
首に腫瘍が見つかり、1973年に入ると複数回の心臓発作を起こしました。家族などの説得でイスマイル副首相は7月頃に辞任を決断。折しも、ラザク首相はカナダに外遊中で、帰国後に辞表を提出することにしていました。
しかし、です。イスマイル副首相に悲劇が起こります。8月2日午後に視察を終えて、自宅に戻ると激しい心臓発作に見舞われました。随行の医師らによる必死の治療にもかかわらず、同日午後10時に死去してしまったのです。
驚嘆したラザク首相は予定を切り上げて帰国。「今となってはほかに誰を信用すればいいのだ」と弔問した故人宅で未亡人に語ったといいます。
ラザク首相はこの2年後に死去しますが、イスマイルが亡くならなければ、第3代首相にもなっていた可能性が大きかったのです。イスマイルの政治姿勢は、マレーシアをよく皮肉るシンガポールのリー・クアンユー首相からも賞賛されていました。イスマイルが首相になっていれば、シンガポールとの関係はそれ以降は良好であったかもしれません。
イスマイルはそれまでの国家への功績を大きく認められ、「英雄墓地」に埋葬された最初の人ともなりました。
また、政府はイスマイルに敬意を評し、彼の自宅があった通りをJalan Tun Ismailに改名されています。これは中央銀行バンク・ヌガラ近くにあります。

 

さて、TTDIの名称ですが、イスマイルの死去の前には決まっていたようです。ただ、TTDIの開発計画策定は折しも亡くなった1973年で、造成が翌年に始まり、6,500戸分の住宅や商業向け建物を建設し、今に至っています。

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

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