第39回 スリランカにも「マレー人」が住んでいる

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インドの南にある島国スリランカで4月21日、教会やホテルなどで爆発があり、日本人を含む200人以上が死亡する事件がありました。またもやイスラム武装組織との犯行と指摘されていますが、イスラム教が国教であるマレーシアに住む日本人としても他人事ではありません。亡くなられた方々にご冥福をお祈り申し上げます。今回のこのコラムでは、あまり知られていないスリランカにいるマレー語を話す人たちの歴史を取り上げます。

 

マレーシアと共通点のあるスリランカとはどんな国なのか

ここでちょっとスリランカの概要についてお話しましょう。

 

インド洋に浮かぶスリランカの人口は約2103万人(2016年現在)。シンハラ人が70%以上を占める多民族国家で、ほかに約15%のタミール人などが住んでいます。公用語はシンハラ語とタミール語ですが、イギリスの植民地でもあったため、民族間をまたぐ会話は英語で、マレーシアに似たようなところがあります。宗教は仏教徒が70%(主にシンハラ人)を越え、次にヒンドゥー教徒が約13%(主にタミール人)、イスラム教徒が約10%、キリスト教徒が約8%といった多民族多宗教社会です。

 

歴史を見ると、16世紀にポルトガルが一部を植民地化し、その後はオランダがやってきました。1802年にはイギリスの植民地となります。1948年にイギリスの自治領として独立し、「セイロン」の国名を採用しました。セイロンという名称は植民地時代から使っていましたが、国名の決定には政治的宗教的な配慮があったようです。

 

そして、1972年に国名をスリランカ共和国に改称し、イギリスの自治領から完全に独立したのです。1978年にはスリランカ民主社会主義共和国と再び変えました。

 

しかし、スリランカは1983年から内戦に突入します。簡単に言ってしまえば、多数を占めるシンハラ人と少数のタミール人によるもので、2009年まで約30年にわたり続きました。つまり、シンハラ人の政府とタミール人からなる反政府組織の争いで、この期間には大統領や要人も暗殺されるなど7万人以上の犠牲者を出し、また、国内避難民を28万人も出したのです。

 

宗教や言語、文化などが複雑に絡み合って内戦に発展したのですが、2009年に反政府組織の議長が死亡して、内戦は終結を迎えました。

 

内戦終結後10年経った今年、再び宗教絡みとみられる爆弾事件が起こりました。事件の首謀者らはすでに自爆したとみられてもいますが、今後どういう展開になるのか目が離せません。

 

内戦はマレーシアでは発生していませんが、1969年の人種暴動など、民族間の緊張はこれまでずっとありました。歴史、文化、宗教の構造といった面でもスリランカとマレーシアは似たようなところがあります。

 

「マレー人」が住んだいきさつと現在

 

さて、スリランカには今もって5万人ほどのマレー語スピーカーがいます。彼らはイスラム教を信仰し、マレー人としてのアイデンティティーを明確にもっています。マレー人の人口は44,000人ほどで、人口の割合にすると0.22%とかなり少数です(2011年同国国勢調査による)。この人口調査では「その他」という欄もあり、マレー人は数字からして「その他」に入れられてもおかしくはないのですが、同国政府はわざわざマレー人の枠を置いているのが面白いところです。

 

この島に「マレー人」が来たのは、オランダ植民地時代(1658年から1802年まで海岸地帯のみを支配)とされています。オランダは17世紀以降から現在のインドネシアを支配してきました。スリランカ(当時はセイロン)はこのオランダ植民地の流刑地とされ、1707年にジャワ王国の王が流されます。その後もオランダとの戦いに破れた同王国の王族や貴族もセイロン島に遠島となりました。このときは実質的にはジャワ人が流されてきたのでしたが、「マレー語を話す」という意味でオランダは「マレー人」としていたようです。(注)

 

一方で、軍人としてセイロンに派遣される「マレー人」もいました。現在のインドネシア諸島の出身者が送られ、最多で2,500人がいたとみられています。 

 

その後、19世紀になるとセイロンはイギリスの植民地となります。イギリスは1801年に「セイロン・マレー連隊」を創設。セイロン島をオランダから奪取するため、1795年に軍を派遣。オランダ軍には1,000人余りの「マレー人部隊」がおり、これが勇敢な働きをしたものの、オランダは降伏。この部隊は一旦インドに送られましたが、その後に同島に再派遣。そこで名称が上記になったのです。イギリスはこの勇敢な部隊をそのまま自国軍に置くことで軍の強化を図ったとみられています。

 

その後もインドネシア諸島からだけではなく、マレー半島のマレー人からも兵士を募って補強していたようです。1827年に「セイロン・ライフル連隊」と名称を変更しましたが、1873年に解散しました。

 

しかし、このマレー語を話す人たちはそのままセイロンに残ったようです。兵士のほかにもすでに「マレー人」奴隷も同島におり、島内のコロンボなど一部地域に一定数が住んでいました。19世紀には兵士たちは現地人と結婚して家族もできたのですが、言語はマレー語をそのまま使い続けてきました。

 

その結果、19世紀にはマレー語による新聞や本も出版されるようになりました。シンハラ人やタミール人が住むなかで、マレー語を話すイスラム教徒でマレー半島も含める東南アジア島しょ部出身者は強いアイデンティティーをここで作り上げるようになったのです。しかし、「マレー人」のアイデンティティーが浸透したのは、主にイギリスが彼らを「マレー人」と分類化したためとみられています。

 

マイノリティー中のマイノリティーであるマレー人

 

ただ、現在のスリランカのマレー人のマレー語は、マレーシアで話されるマレー語とは少し異なり、タミール語なども混じった言葉になっているようです。公用語ではないためにマレー人の間でしか使われていません。また、マレーシアのマレー人の伝統的な慣習などもスリランカでは残っていないのも特徴。スリランカのイスラム教徒はタミール人が多いので、イスラム教徒のの中でもマレー人はマイノリティーなのです。つまり、ここのマレー人はマイノリティーのなかのマイノリティーというグループに位置づけられています。

 

さて、上記の事情と、マレー半島のイギリス植民地時代、セイロン人がコーヒーの栽培事業やキリスト教の布教で多く来たこと、同じ宗主国でもあったことなどから、独立当初のマラヤ連邦政府の首脳らはスリランカに親近感を覚えていました。ラーマン初代首相はイギリスに留学する際にスリランカを通過して赴いています。

 

少し時代は下りますが、1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)は、創設直前にはスリランカを加盟国として招待していました。これは「スリランカが東南アジアの気候、環境に類似している」との説明でしたが、上記の心理的なものもあったのかと思います。スリランカは結局、国内外の政治的な配慮から返事をしばらくしなかったのですが、加盟していれば「東南アジア」の一員になっていたのです。

 

ちなみに、クアラルンプールタワーから道路を隔てた一角に「ブキ・セイロン」という地区がありますが、ここは1880年代にコーヒープランテーションがあり、セイロン人が多く住んでいたためにこの地区名がつけられたようです。

 

(注)「インドネシア人」の名称とアイデンティティーの確立は1920年代以降になります。また、この時代は「東インド諸島」や「マレー諸島」などの言い方が一般的でしたが、混乱を避けるため、ここでは「インドネシア諸島」と便宜的に使っています。

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

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