第41回 クラン河について

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クアラルンプールを流れるクラン河。クアラルンプールには河川が多いのは知られていますが、そのなかでもクラン河は重要です。今回はクラン河に関わる歴史についてまとめてみました。

 

クアラルンプールの発展に欠かせないクラン河とは?

 

クアラルンプール市役所によると、クアラルンプール市内を走る河川は23本あります。このうちクラン河、その支流であるバトゥ河とゴンバック河の3本は主要河川とされ、さらにそれぞれ支流が流れています。このなかでもクラン河はクアラルンプールの発展には欠かせない河川です。

 

クラン河はクアラルンプールの北東約25キロにある湖「クラン・ゲーツ・クオーツ・リッジ」を水源として流れています。この湖はスランゴール州にあります。河の全長は約120キロ。アンパン、カンプンバル、クアラルンプール中心部、タマンデサ、プチョンなどを通って、シャーアラム南部とクランを経て徐々に川幅を大きくし、マラッカ海峡に出ます。

 

クアラルンプール一帯の年間降水量は約2500ミリ。このため、クラン河などはたびたび洪水を起こしています。市役所はクポンなどの貯水池に支流のゴンバック河から溢れる水を貯めるプロジェクトや、2007年に開通した洪水緩和と渋滞緩和向けのSMARTトンネルを作って洪水対策をしています。

 

ちなみに、このSMARTトンネルは全長9.7キロと世界一の洪水緩和向けトンネル。通常は車が通るトンネルですが、豪雨が長く続いたときは入口を閉めて水を流して貯める仕組みです。

 

クランからクアラルンプールへの交通路

 

さて、クラン河の名称は、言うまでもなく、クラン港として有名なクラン市を通るために付けられたのでしょう。

 

20世紀になるまで、マレー半島の河川は人々の交通手段として主に使われていました。交通網の歴史については第11回(https://www.malaysia-magazine.com/news/27917.html)に書きましたが、当時は船での移動が一般的であり、町や集落も河川沿いに発展していったのです。

 

クランは海とクラン河の河口であったことから、自然と町に発展していったのでしょう。河口を押さえると河の上流一帯を政治的にも牛耳ることもでき、クランは王国の中心地としては格好の場所でした。このため、クランは1880年まではスランゴール王国の宮都でした。昔の王宮が残っているのもこのためなのです。

 

少し寄り道をすると、クランの街は実に古い街なのです。2世紀に製造したとみられる青銅が発見されており、この時代にはすでに人が住んでいたことがわかります。中国の古文書などにも記載されており、要衝の地だったのです。15世紀にはマラッカ王国の支配下にあり、スズの街として知られていたようです。

 

スランゴール王国はもともとクアラ・スランゴールを宮都としていましたが、19世紀に入るとクランに遷都。当時の王国は権力争いが絶えず、資金も必要であった王族らはこぞって利権を求めます。そのメインがスズ鉱山の開発だったのです。

 

スズ鉱床を見つけるため、クラン領主ラジャ・アブドラは1857年、中国人労働者87人をクラン河上流に派遣。その途中で一行はクラン河とゴンバック河の合流地点に下船しました。そこが現在のムスジット・ジャメで、泥の合流地点の意味でクアラルンプールと名付けられたことは有名です。中国人一行はそこからジャングルを切り開いて、3~4キロほど進み、現在のクアラルンプールのアンパン地区に鉱床を発見。クアラルンプールはアンパンやプドゥなどのスズ労働者らの集落として発展していきました。

 

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クラン河とゴンバック河(左)の合流地点。ここは「クアラルンプール」発祥の地。

 

以後、クアラルンプールはスズ産業で活気を呈しました。ここはスランゴール王国の一部でしたが、英国の植民地政府はこのスズを見逃しません。1874年に本格的にマレー半島に政治的に介入し、スランゴールにも英国の駐在理事官(注)が置かれました。駐在理事官は宮都クランに滞在していましたが、1879年にスランゴール王国の遷都をクアラルンプールに決定。翌年には植民地政府庁舎が移転します。遷都の理由はクアラルンプール近郊のスズ鉱山を支配するためだったようです。

 

その後に駐在理事官となったフランク・スウェッテンハムは、クアラルンプールを訪れたとき、クランから船で3日かかったと記録しています。クラン河はクラン市からクネクネとした河の流れで、クアラルンプールに入る前には南に大きくうねって入ります。この多くのうねりが時間のかかる要因でした。スズを運搬するにも大きく影響します。

 

また、植民地政府は1880年にクアラルンプールに移ってきましたが、その庁舎はクラン河の西側に集中して建てられました。今のスルタン・アブドゥル・サマドビルあたりになります。当時はマレー人はムスジッド・ジャメ北側、中国人はその南側に住んでいましたが、英国人は反乱などを恐れて、クラン河西側の丘の上に住んだのでした。河が一つの境としての役割があったのです。

 

ダマンサラはもともと村だった

 

さて、このクラン河の大きなうねりが「ダマンサラ」の発展に寄与したと言っていいでしょう。

 

スズを輸出するにはクランの港から出荷していたのですが、このクラン河をたどっていくと時間がかかります。このため、英国植民地政府はより早く運搬できるようにするため、道路を敷設していくことにしました。それがジャラン・ダマンサラだったのです。

 

1880年代前半の地図をみると、ダマンサラについては「Damar Sara」と記載されています。もともとこの名称で呼ばれていたようですが、植民地政府が公文書に書いたときに間違って「Daman Sara」と記載してしまったようで、以後、この名称が使われるようになりました。ただ、名称の起源についてはこのあたりをインド人が利用していたことから、インド人の言葉がもととなったとも言われていますが、実際のところは不明です。

 

ダマンサラはもともと小さな村で、クラン河とダマンサラ川の合流地点、つまり現在のシャーアラム・セクション19の場所にあったようです。この合流地点にはクアラルンプールを行き来する舟の停泊場ともなっていました。

 

この村に通じる道がジャラン・ダマンサラと呼ばれ、1873年にはクアラルンプールに通じる道となったようです。1895年にはこの道は現在のセントラル・マーケットあたりにまで敷かれるようになり、陸路で停泊場まで行けるようになりました。この道はクラン河の代用として使用されるようになったのですが、独立後に高速道路などの敷設などで、一部のみが当時と同じ経路になっています。

 

さて、最後にクアラルンプールにいるとよく聞かれるクランバレーについて。
クランバレーはKlang Valleyと書きますが、日本語に翻訳すると「首都圏」という意味になります。クラン河を中心とした周辺地域のことで、クアラルンプールや南はプトラジャヤ、東はアンパン、西はクラン、北はラワンまでの広範囲な地域を指し、「グレーター・クアラルンプール」と呼ばれることもあります。クアラルンプールに隣接するプタリンジャヤももちろん含まれます。新聞などを読んでいるとこの言葉に遭遇することがよくありますが、くれぐれも「クラン渓谷」と理解しないようにしましょう。

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

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