第46回 言語別に発行されてきた新聞史(前編)

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マレーシアの新聞業界は現在、苦境に立たされています。日本と同様にネットの普及で紙の媒体が売れなくなってきているからです。先日もマレー語新聞『ウトゥサン・マレーシア』の廃刊騒ぎがあったばかりです。今回はマレーシアで新聞がどのように発刊されてきたのかをみましょう。

 

最初の新聞は英語だった

 

マレー半島に初めて新聞が登場したのは、イギリスの植民地となった19世紀です。

 

最初の新聞はペナン島で1806年の月刊『Government Gazette』。植民地政府の官報の役割もあり、英語で発行されました。インドで印刷工として働いていたアンドリュー・ボーンがペナン島に移民して発刊。ボーンは1815年に死去する3日前まで執筆をしていたといわれていますが、1827年にいったん休刊。

 

『Prince of Wales Island Gazette』と途中で改称し、一般ニュースのほか、貿易関連や海外事情などを報じていました。その後は資金不足などもあって1827年にいったん休刊。その10年後に『Penang Gazette』として復刊しました。10年も経ってからだと、これが後続の新聞なのか疑問なのですが、いずれにしても、1933年まで続きました。

 

このほかこの時代には1826年の『Malacca Observer』など英語の新聞は40紙以上が創刊し、おそらくマレーシアの歴史のなかでも最も多く新聞が発行された時期と言ってもいいでしょう。

 

また、これは現在シンガポールの主要紙ですが、『The Straits Times』も1845年に創刊されています。アメリカ人が創刊者でしたが、その後は資金不足により何度も会社が転売されていたのです。当初は週刊紙として一回8ページで発行していました。

 

中国語新聞を発行したのはイギリス人だった

 

英語の次に創刊されたのは中国語の新聞でした。

 

最初の中国語新聞はマラッカで1815年に創刊された月刊『察世俗毎月統記傳』。創刊者はなんと華人ではなく、イギリス人のキリスト教伝道師ウィリアム・ミルネでした。

 

中国人への布教のために発刊しており、ミルネ自身が布教関連記事や時事ネタを執筆。創刊当初は500部のみでしたが、反響が大きくなって4年後にはその倍の部数を印刷しました。新聞は無料でしたが広告はなく、氏が所属していたロンドン伝道協会の資金で運営されていました。
同紙はタイやベトナム、中国などでも読まれ、東南アジアで初めての中国語新聞として注目を集めていましたが、1822年にミルネが死去すると廃刊されてしまったのです。

 

その後も複数の中国語の新聞はイギリス人の手で発行されていたのですが、中国人による新聞は1881年にシンガポールで発刊された『叻报』。これは1932年まで発刊され続け、主に中国本土のニュースなどが掲載されていたのです。

 

やっとマレー語の新聞の発行

 

マレー語の新聞は、1821年になってやっと創刊されました。マラッカで発行された季刊紙『Bustan Ariffin』が最初です。

 

こちらも中国語新聞を出したロンドン伝道協会が布教のために創刊させたのですが、1年ほどで廃刊してしまいました。読者をマレー人とアラビア人に対象にし、ジャウィ(マレー語のアラビア文字表記)で書かれていたのですが、おそらくほとんど布教がうまくいかなかったとみられます。この後に複数のマレー語新聞が発行されたものの、短期間で終わっています。

 

マレー語の新聞のなかで最も長かったのが、1876年創刊の週刊『Jawi Peranakan』です。インドからの移民であったイスラム教徒が創刊しました。ペナンとシンガポールで発行されていました。スタッフもインド人移民が多かったのですが、マレー語の主要紙として約20年も発行され続けました。

 

その後も次々とマレー語紙が発行され、19世紀には17のマレー語の新聞と雑誌が読まれていました。ほとんどが都市を中心としたものですが、ペラ王国で発行された新聞もありました。この頃の特徴的なのは創刊者の多くはマレー人ではなかったところでした。なお、マレー語の新聞は、以前にもお話したように、1957年までは主にジャウィで書かれていました。

 

最も遅く創刊されたのはタミール語の新聞です。インド人移民は19世紀中葉以降から増えてきたので、これに合わせて発刊されていきました。最初のタミール語紙は1875年の『Singai Warthamaani』。シンガポールで発行され、ゴム農園などの状況を報じていましたが、まもなく廃刊。しかし、これを気にペナン島やペラでタミール語紙が出て、19世紀には数紙が出回っていました。

 

新聞発行が困難だったのはなぜか

 

言語に関係なく、この当時もそれ以降も新聞の発刊にはいろいろな困難が極めました。

 

発行するにあたり、19世紀のおそらく最大の問題は、読者の識字率の低さでした。このため、読者層が非常に限られ、市場拡大はなかなか難しいものがありました。一部の新聞経営者は同時に学校も運営し、識字率を高める努力もしていました。

 

また、創刊したものの、広告を獲得するのもさらに大変な仕事でした。今と違って、広告を出して市場を拡大するという概念自体がまだ一般的に定着しておらず、収入源を経営者の私財などに頼ることが多かったのもこのためです。大多数の新聞は有料でしたが、それでも数年で廃刊に追い込まれるのも珍しくなく、多くの資産をもっていないとなかなか難しいビジネスだったのです。

 

一方で、19世紀以降に書籍や雑誌が次々と出版されていったのは、相次ぐ新聞発行の影響のほか、欧米から導入された印刷技術の向上のためでした。20世紀になるとこれら出版物はナショナリズムと絡んで大衆への伝達手段となっていったのです。

 

次回は、マレーシアで今日おなじみの新聞の登場、日本軍の統治下での新聞、その後の変遷を見てみましょう。

 

伊藤充臣■在馬歴14年目。マラヤ大学人文社会学科歴史学科で修士と博士号を10年がかりで取得。趣味は読書と語学。専門の東南アジアを極めるため、最近ではクメール語に注力している。

 

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