異教徒にご飯を振る舞うシーク教の寛容さから学べること

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シーク教という宗教をご存知だろうか。マレーシアの宗教といえば、イスラム教を中心にキリスト教、仏教、ヒンドゥー教などが思い浮かぶがシーク教徒も少数ながら存在する。日本で、インド人がターバンを巻いていたり、ナンやタンドリーチキンを食べるイメージは、実はこのシーク教徒からきている。社会心理学者の渡部先生はこの宗教から日本人が学べることは多いと話す。一体どういうことか、ぜひ読んで見てほしい。

 

先月半ば、シーク教の新年のお祭り、バイサキ・フェスティバルに行ってきた。ムスリムが国教のこの国に、しかし多くの他宗教も共存していることは、マレーシア在住の皆さんはよくご存じのことと思う。

 

シーク教寺院に行って驚愕しました

 

マジョリティとなるムスリムに加え、中華系はクリスチャンか仏教、インド系はヒンズー教徒が多いこの国で、少数ながら確固たる存在を示しているのがシーク教だ。

 

誰もが平等に食事を共にする宗教

 

シーク教は、インド北西部のプンジャビ地方で500年以上前に始まった宗教である。地域的にイスラム圏とヒンドゥ圏に囲まれた場所に位置しているプンジャビで、彼らはイスラムとヒンドゥ、双方の良いところを取り入れようとした。しかし、それ故にシーク教は、双方から、苛烈な迫害を受けてきた歴史がある。それにも関わらず、現在ではイスラム教、キリスト教、仏教、ヒンドゥ教の世界四大宗教に次ぐ、5番目の信者数を誇る世界的宗教に成長している。

 

シーク教は、一神教で、一切の偶像崇拝を行わない。また、すべての人は平等であることを説いており、厳しいカースト制度で知られるヒンドゥ教とは異なる。女性も男性と同権で、男女の間に厳しい違いのあるイスラム教とも違っている。

 

そのシーク教徒の新年は毎年4月になる。各地で連日盛大な催しが行われるが、ここマレーシアも例外ではない。その中でも特に目立つのが、1日5回振る舞われる食事だ。もともと、シーク教では「寺院を訪れる誰もが平等に共に食事をする」ことを是としている。身分の上下も性別も宗教さえも関係なく、訪れた人はそこで食事を共にする。それこそがシーク教の平等を体現する宗教的実践なのである。

 

特にバイサキ・フェスティバルにはシーク教徒はもちろん、地元コミュニティや観光客も訪れることから、寺院敷地全体が食堂と化し、誰もが膝突き合わせて、手作りの食事をいただく。寺では肉食は禁じられているので、すべて野菜料理だが、美味しい。それも当然だ。シーク教自体は、日本人にとってはあまり馴染みのないように思えるが、日本にあるインドレストランの多くは、実はプンジャビ地方の料理を提供していて、シーク教徒が食する「シーク料理」であることが多い。

 

タンドーリ(インド式のオーブン)はもともとプンジャビ料理のアイテムだし、ナン、チャパティもそうだ。寺でも、チャパティと豆カレー、ホウレンソウカレーに、ヨーグルトサラダなど、美味しくかつヘルシーな料理が、チャイとともに供される。

 

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それをつくるのはすべて、シーク教のボランティアだ。大人が入れそうな大きな鍋にバケツいっぱいの香味野菜を大量の油ともに投入し、スコップのようなヘラでかき混ぜながら調理するのは主に男の仕事だ。一方女性は、熱い鉄板で焼かれたチャパティを何百枚も作る。その一方で、流れ作業で何千枚にも及ぶ皿やコップを洗う人、かごいっぱいの玉ねぎをみじん切りにする人など、さまざまだ。

 

面白いことに、ここまで大規模に食事を提供するシークでは、寺にくる異教徒をシーク教に勧誘してはならない戒律がある。寺への寄進も求めてはならない。つまり、宗教集団にとって全く得にならないことを行っているのだ。

 

現在の社会生物学の理論では、集団から利益を奪うだけで集団に資することのない人に「罰を与える」ことが集団の生き残りに重要だとされている。集団のために働く人ばかりで構成された集団の方が、生産性が高いからだ。しかし、シーク教では、そのような罰対象となる人を罰してはならないことになっている。

 

異教徒がタダ飯を食べることを許す寛容な宗教

 

つまり、他宗教徒は、シーク教寺院でタダ飯を食べ放題なのだ。しかし、シーク教では「それでよい。これはヒューマニティなのだから」という。上記のボランティアの働きをみれば、金銭的、時間的、人的資源コストが大きくかかっていることは分かるだろう。他宗教者はそれに(やろうと思えば)「ただ乗り」できるのだ。だが、そんなシーク教の「寛容さ」に、筆者は日本人が学ばなくてはならないものを見た気がした。

 

日本のコミュニティの特徴は「村社会」といっていいだろう。村社会とは、極端にいえば、お互いを監視し合い、人間関係を含めた様々なことに、「口出し」する社会だ。以前書いた社会的ビクビク人間が育つ土壌である。「あの人はあの人の友達だから、何かいったらすぐに告げ口される」とか、「この人に話を通しておかないと、へそ曲げるのであとあと大変だ」といった「人間関係上のしがらみ」が多く存在する。

 

日本的ムラ社会の原因は「社会的ビクビク人間」

 

そういう村社会では、よそ者、新参者を極端に警戒する。集団の一員になるためには、長い時間がかかり、その間、陰湿ないじめや嫌がらせを受けることも多い。両親の介護のため、都会から田舎に戻った家族が、いやがらせを受けたというニュースも、ごく最近のものだ。

 

筆者がシーク寺院にいって感動するのは、村社会とは正反対の「寛容性」を感じるからだ。明らかに人種の違う日本人が訪問しても、「誰だこいつ?」という雰囲気は微塵もない。シーク教自体は戒律がいろいろあり、そのいでたちも独特(ターバンに長いひげ、腕輪に短剣所持など)だが、見た目も言語も全く異なる私たち日本人(に限らないが)に向ける目はいつも優しくおおらかだ。

 

強固なのに開かれた結束の硬い集団

 

その一方で、シーク教内での結束は固い。異教徒の地でもその地域に溶け込み、貢献をしつつ、コミュニティを拡大している。特にカナダやイギリスではシーク教徒のコミュニティおよびその地域貢献は無視できないほど大きいものになっている。

 

日本人はその村社会ゆえに「集団主義」を作り、強い結束を生み出してきた。それが昭和の高度成長期の原動力になったのは間違いない。だが、グローバル化が進む今、その集団主義の裏にある「非開放性」の弊害が出ている。新しいビジネスチャンスやどんどん変わる世界の潮流のスピードに追いついていけない。シーク教コミュニティは、強い結束を生みながらも、開放的で、異なるものを受け入れ、協力する。

 

これこそが、いまの日本コミュニティにとって必要なものだと筆者は感じている。

 

日本の中のシーク教徒は極端に少なく。シーク寺院も東京と神戸の2か所に小さなものがあるだけだ。しかしここマレーシアでは、クアラルンプール、ペタリン・ジャヤの大きな寺院の他に、数か所の寺院があり、車で20分以内ならばどこか見つかるはずだ。彼らの「結束と開放性の両立」を感じるために、無料の料理をいただきつつ訪問するのも、良い経験ではないかと思う。その際には、お寺へのお参りと、ただ乗りしないためのわずかな寄付(お賽銭)を忘れずに。

 

 

渡部 幹(わたべ・もとき)
モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授
 
UCLA社会学研究科Ph.Dコース修了。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。現在はニューロビジネスという大脳生理学と経営学の融合プロジェクトのディレクターを務めている。社会心理学を中心として、社会神経科学、行動経済学を横断するような研究を行っている。また2008年に共著で出版した講談社新書『不機嫌な職場』が28万部のヒットとなったことをきっかけに、組織行動論、メンタルヘルス分野にも研究領域を拡げ、企業研修やビジネス講師等も行っている。
代表的な著書に『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』(共著、講談社刊)。その他『ソフトローの基礎理論』(有斐閣刊)、『入門・政経経済学方法論』、『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』 (共著、講談社)など多数。

 

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