小市民的ビクビクと武士的規範

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サッカーワールドカップにおける日本代表の行動が話題になっています。今回は「道徳的規範」がある人と、周りからの目を恐れる「社会的ビクビク人間」の間にはどういう差があるのかを考えます。

 

サッカーワールドカップにおける日本代表の活躍は、多くの日本人にとって予想外だったはずだ。筆者もその中の一人で、あまり期待していなかったのだが、嬉しいサプライズだった。

 

その日本代表について流れていたニュースに、「サポーターがスタジアムのゴミ拾いをして帰った」「敗退後の日本代表のロッカールームが綺麗に整頓されて、ロシア語で『ありがとう』のメッセージがあった」といった、サポーターや代表の試合後の振る舞いに関するものがあった。

 

このこと自体、素晴らしいことだ。筆者としてはそれを現地で行った人々には尊敬の念を抱いている。日本代表主将の長谷部選手もインタビューで「誇りに思う」と述べていた。

 

一方で、このようなニュースが流れるということは、他国のサポーターは普段はそういうことをしないということでもある。当然、「なぜ日本人は試合後にスタジアムやロッカーをきれいにしていくのか」という文化論が出てくる。

 

韓国のジャーナリストが書いたある記事には「それは、ゴミ捨てによる罰が怖いからであって、日本人の高い道徳性を示すものではない」とする記述があった。かなり偏った見方で誤解も多いが、一部は当たっていると思った。

 

「恥の文化」と「罪の文化」

 

米国の女性文化人類学者、ルース・ベネディクトが1946年に著した『菊と刀』は、日本文化論の端緒とされる。その中で、ベネディクトは、米国を中心とするキリスト教国家が「罪の文化」なのに対して、日本は「恥の文化」であると主張している。

 

「罪の文化」とは、簡単に言えば、神からの罰を恐れ、それを理由に行動が決定される文化である。罪の意識は、個人の心の中にあるため、それに基づく行動規範(行動を決めるルール)は、あくまで個人的なもので、はた目には「自発的な行動」に見える。

 

一方「恥の文化」は、「自分が世間あるいは周りからどう評価されるか」が行動決定の基準になっている文化だ。自分の心の中にある罪の意識(あるいは神からの懲罰、救済)ではなく、あくまで自分の生きている社会環境の中で、自分が周りにどう評価されるかが重要になる。

 

それはつまり、日本人は回りの評価が気になる場合と、そうではない場合で行動が変わることが多いことを意味する。『旅の恥はかき捨て』という言葉はそれを端的にあらわしている。旅先で周りからどう思われようと、それは一時的なもので、移動してしまえばチャラにできる。だから、旅先では普段しないような(周囲を気にしない)行動をとる。ベネディクトは、この恥の文化が日本人の行動規範になっていることを看過していた。

 

この著書が発表されてからすでに70年以上経つが、この論は今でも正鵠を得ていると筆者は考えている。

 

現在でも日本人の行動規範の大部分を占めているのが、「嫌われないこと」「まわりに迷惑をかけないこと」だと思う。これ自体悪いことではないが、それに囚われるあまり、自分の中に一貫した「内なる規範」を持てないのは問題なのではないかと思う。

 

ネット上のニュースや週刊誌の見出しには毎日のように「女子社員に嫌われるおっさん上司のNGワード」「女子会でこんな行動は嫌われる」「こんなカラオケ選曲で、周囲はドン引き!?」など、「人に嫌われない」ための記事が並ぶ。帰国子女には「学校でいじめにあわないために、どうしたら皆から嫌われないか」の指導が行われる。

 

こういった事実は、日本がいまだに「恥の文化」にあることを示しているように思う。

 

他人に迷惑をかけない行動そのものは賞賛されてしかるべきだ。だが、それが「周りの目」を気にするから、という理由では、道徳心があると言えない。その行動が「いつ何時でも行うものだ」という個人の内なる行動規範になって、初めて本当に賞賛されるべき道徳心になるのだと考える。

 

「社会的ビクビク」と「サムライ」の違い

 

この内なる規範のことを、ドイツの哲学者、カントは「格率」と呼んでいる。格率とは、その行動が引き起される理由や、その行動がもたらす結果とは、まったく関係なく、「ある行動をすると決めたら、する」という自分の内なるルール化を意味する。カントはそれが道徳的行動の基礎になると論じている。

 

このことから考えると、ワールドカップでのサポーターや代表の振る舞いは、「別に散らかしても非難されるわけでもない場所」でも「いつものように清掃した」のだから、内なる規範にしたがったのだと、筆者は解釈している、だからこそ彼らの行動は賞賛されるのだ。

 

以前に紹介した社会的ビクビク人間は、周囲からの評価が気になるあまり、自分自身の道徳基準を持てなくなるような人々だ。恥の文化の「恥」の部分だけにこだわり続けているのである。

 

そこから脱し、内なる規範を持ち、道徳的ふるまいをすることこそが、日本人に求められているとだと思う。それは、武士的振る舞いであり、まさに「サムライ」としての行動だ。

 

マレーシアにいる私たちは、日本に住むよりも圧倒的に「周りからの評価」を気にしなくてよい環境に暮らしている。だが、そういうときこそ、自分の「内なる規範」からの行動が出やすくなる。自分の「内なる規範」が本当に自分にとって誇れるものなのか、考える良い機会を私たちはマレーシアで得ている。この機会を活かさない手はないだろう。

 

渡部 幹(わたべ・もとき)
モナッシュ大学マレーシア校 スクールオブビジネス ニューロビジネス分野 准教授
 
UCLA社会学研究科Ph.Dコース修了。北海道大学助手、京都大学助教、早稲田大学准教授を経て、現職。現在はニューロビジネスという大脳生理学と経営学の融合プロジェクトのディレクターを務めている。社会心理学を中心として、社会神経科学、行動経済学を横断するような研究を行っている。また2008年に共著で出版した講談社新書『不機嫌な職場』が28万部のヒットとなったことをきっかけに、組織行動論、メンタルヘルス分野にも研究領域を拡げ、企業研修やビジネス講師等も行っている。
代表的な著書に『不機嫌な職場 なぜ社員同士で協力できないのか』(共著、講談社刊)。その他『ソフトローの基礎理論』(有斐閣刊)、『入門・政経経済学方法論』、『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』 (共著、講談社)など多数。

 

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